孤独死

4月16日(金)の読売新聞の夕刊の藤原智美さんって方のコラム「いやはや語辞典」が気になったので。
まず引用

孤独死 -本人に尋ねたのか-」
一人住まいの高齢者が増えている。いや、一人住まいの中年だって、若者だって少なくない。そんな人が亡くなると、遺体がしばらく発見されなかったりすることもある。それを最近は簡単に「孤独死」とよんで、片づけてしまう。
亡くなったのだから、「死」というのは正しいが、「孤独」というのはどうか?この言葉を耳にすると、私はいつも「本人に、孤独かどうか尋ねたことがあるのか」と、つい問いただしたくなる。
一人で懸命に生きた人を、ただ人知れずひっそり死んだという、それだけの理由で孤独だった、と断定する権利は誰にもない。現実には、りっぱな病院の個室で、たくさんの人に看取られても、孤独感を抱いたまま亡くなる人だっているだろう。
孤独は人の内面に宿る、つらい感情だ。それを計量したり、判断したりする一般的な物差しなどない。その人の孤独が分かるのはその人しかいない。にもかかわらず、孤独死という判断に対して、当の死者は異論を唱える権利も言葉も与えられない。
言葉を失った存在に、一方的に孤独というレッテルを貼りつけるのは、生きている者の傲慢であり、強者の論理である。
この言葉を見聞きしたとき、そこに哀れみや同情だけではない、卑しい感情が潜んでいるように感じることがある。自分だけはこんな死に方をしたくなし、きっとしないだろう、私には家族も親友もたくさんいる、という優越の心だ。
死とは一人で迎えるしかない人生の終焉である。
一人で死ぬしかないという意味では、私たち全員、迎える死は、いうまでもなく孤独死でしかないのだ。
4月16日(金)読売新聞夕刊 藤原直美 コラム「いやはや語辞典」より

確かに。
一人で死んだって、それまで懸命に生き幸せな気持ちで生きてたら、その人の人生は孤独でも何でもない。まぁ、死体が発見されたとき、死体が1つだけなので、死体が物理的に孤独と言えば孤独ですが。。。
人生、いつ死ぬか分からないので、せっかくなので、声を上げれるうちにあげておきまする。
嫁や家族、親戚、友達によくしてもらったので、わたくしがなんかの拍子に一人でひっそり死んでも決して孤独死ではないのでよろしくお願いいたしまする。
毎日を大切にしなくっちゃ。